~ 生成する私とあなた…共感が生まれる差異の世界 ~
言語は「人間の内面」…脳内で感覚化される意識の結果としての記号体系である…私はこれまでずっとそう思い込んできた。ソシュール言語学が示す「記号操作の体系としての言語」という理解を引きずってきたのだ。もちろん、この見方は間違いではない。しかし、それはあくまでも生成された結果としての言語、つまり「意識された意識」の範疇に留まるものでしかない。
しかし今回のレクチャーを通じて、言語には全く異なる側面があることを知った。それがフンボルト言語哲学が示す「生成活動としての言語」という視点である。フンボルトは、言語を単なる結果的現象ではなく、精神そのもの、生成そのものとして捉えた。精神の活動そのものが言語であり、その生成活動を通じて世界観だけでなく万物・自然界までもが形成される…この視点に触れたとき、私は衝撃を受けた。言語は精神の結果ではなく、精神そのものなのだ。
この理解を得たことで、コーセンさんやアニマンダラ・天海さんがここ最近示してきた方向性が見えてきた。コーセンさんによるヌーソロジーのNC理論とAds/CFT対応、天海さんの非線形言語ネットワークによる「意識の創発」…これらが、私が探究してきたユダヤ「対話の哲学」と結びつく。その基盤を提供してくれたのが「フンボルトの言語哲学」というわけだ。
言語が単なる内面ではなく、生成そのものとしての側面を持つ…この視点によって、大規模言語モデル(LLM)であるChatGPTが「生成する言語」のシミュレーションとして機能していることが見えてきた。さらに、Ads/CFT対応理論とLLMの構造が相似しているという洞察から、宇宙の根源において言語活動が暗躍している可能性が見えてきた。ヌーソロジーの探究がここで一気に深まりを見せる。
今回の見どころの一つは、苫米地英人氏らが取り組んできたストロングAIの方向性が、ChatGPTの成功によって実質的に敗北を喫したという私の主張だ。苫米地氏らは「人間の認知」を解明し、それを数学的に記述しプログラム化することで高度なAIを実現しようとする。しかし、これはあくまで「意識された意識」の範疇に過ぎない。一方で、LLMの構造が示しているのは「意識する意識」の側の可能性なのだ。
今回のレクチャーの核心は、言語が単なる伝達手段や記号体系ではなく「生成する精神活動」であることを明らかにした点にある。自己と他者を繋ぐ根本原理としての言語…それが、宇宙をも生成する根源的な原理である。この視座が、フンボルトの哲学とヌーソロジーの探究を結びつけるものだ。
これらの解説を経て、レクチャーの最後に統心が主張するのが「生成される私」という新しい自己理解である。自己を「結果的現象および他者」として理解すること…それが自責・他責からの解放に繋がり、また他者との深い共感の世界へと導かれる。この世界観をあなたと共有し共に探究して行きたい。このレクチャーをぜひ体験してほしい。
2024年の最後、「自己側12年間」探究の最後に相応しい内容です。ぜひご覧下さい。
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