~ 時間の顕在化、そして「真の自由」を求めて ~
「質」か「量」か…それが全ての問題だ。長年に渡り統心はこの問題について考え続けて来た。いや、むしろこの問題が私に考える動機を与えてきたのだと言える。
生きづらい世の中は量を優先し、質を犠牲にする。質が量で表現される時、それはビジネスになる。資本主義だ。量は比較される。量の大小で序列が決定される。量は計算機に乗り、様々なシステムにカタチを変え、人間に便利さを提供してくる。そして人間をそのシステムの中に取り込んで行く…コンピュータ社会、マトリックスだ。
量の思考に侵食されると質の思考は失われていく。質の思考は「こころ」や「生命」に根ざすもの…生きる価値、尊厳、自由などの根拠…それが次第に失われていく。
人類が抱える全ての問題・危機の根本には、この「質」と「量」の転倒があるのだ。すべての人類が「質」を求める様になれば、個人から家庭、そして国家・世界に至るまで、理想的な平和が訪れるに違いない。そうなっていないのならば、それは人々が「質と量の転倒」に気付いていないことが原因なのだ。
ヌーソロジーではこれを「奥行き」と「幅」の転倒問題として、空間認識の観点からそれを是正しようとしている。もちろん「奥行き」が「質」であり、「幅」が「量」である。
ヌーソロジーが開始される元になったオコツト情報、オコツトからコーセン氏へのファーストコンタクトが1989年…そのちょうど100年前に、既にヌーソロジーと同じアスペクトでこの問題に取り組んでいた若き天才哲学者がいた…それがベルクソンである。
ベルクソン30才のデビュー作『試論』(原題『意識の直接与件に関する試論』1888年発表、1889年出版)において、彼は人間が日常生活の随所において知らずの内に質が量に転倒してしまう問題を鋭く考察した。
「温覚と冷覚は別々の細胞が感知する質の違った感覚」「光と闇、白と黒はまったく違った質であり、決して光の無い状況が闇なのではない」
これを知って統心の全細胞が震えた。すると目の前の景色、モノ達がすべて生きている有機体に見えてきた。量の空間から質の空間へと変貌したのだ。
いま正に滅び行く人類の思考は「質を量に変える」ことばかりしてきた。だが新たなる生命の地平を開くヌースの思考は「量を質へ」…というよりも「質と量の転倒を元返す」ことに取り組んで行くのである。
すべての変換人が一度は見ることになる名作…ここに爆誕である。
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