今月のテーマ:フンボルトの言語哲学と生成される私…対話の哲学(3)
ヘルマン・コーヘン(1842-1918)
フランツ・ローゼンツヴァイク(1886-1929)
マルチン・ブーバー(1878-1965)
エマニュエル・レヴィナス(1906-1955)
と流れてきたユダヤ「対話の哲学」の系譜。
だがこの「対話の哲学」に大きな大きな影響を与えたドイツの言語学者がいた。
彼の名はヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)
●フンボルトの言語哲学と対話の核心
フンボルトの言語哲学とは以下のようなものだ
・言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、世界を形作る根源的な力である。
・言語は「話す行為そのもの」(エネルゲイア)によって新しい意味や価値を生成し続ける。
・言語が人間の思考や認識、文化の世界観を形作る枠組みとして機能する。
・他者との対話を通じて、自己や社会が絶えず生成され続けるプロセスに注目する。
・人間の精神的進化を追求し、自己理解と他者理解を深める道筋を示す。
これらフンボルトの思想は、「対話を通じた共感とつながりの可能性」を切り開くものでもある。
●ソシュールの言語概念にこしゅーするな
このようにフンボルトは言語を単なる「記号操作の体系」としては捉えていないのだ。
これを知って、またしても私は「やられた!」…と思った。
先の「ユダヤ精神」に対する誤解と同じである。
「言語」に関してまったくの誤解をしていた。
言語に対する一般的な概念は、しばしば「記号操作の体系」として理解される。
言葉は単なる記号であり、その記号がルールに従って組み合わさることで意味が生成される、という考えだ。これは、ソシュールによる構造言語学が基盤となっている。
「能記(シニフィアン)」と「所記(シニフィエ)」という概念によって、言語は恣意的な記号とその意味内容の結びつきとして説明され、全体としては静的な構造として捉えられてきた。
私の言語に対する観念もまたこのような「記号操作」という印象に固執(こしゅー)していたのだ…(そしゅーるだけに)。
※なんだか吉備ヌーの「ぬーそろ爺」みたいなノリですね。
●言語は「生成力」だった!
しかし、フンボルトが示すのは、まったく異なる言語の本質だ。
言語は単なる記号の集合ではなく、絶えず新しい意味を生成し、世界と人間の関係性を形作る「生成的な力」である。
記号としての言語に固執することは、そのダイナミックな可能性や、人間の思考や文化との深い関係性を見失うことにつながる。
言語を静的な「操作の体系」とみなす限り、フンボルトが語る「言語が世界観を形作る力」との本質的な違いに気づくことはできない。
ここにこそ、私が「やられた!」と思った理由がある。
●いま広宣さんや天海さんがChatGPTと戯れている真意が分かる様になるでしょう
広宣さんやアニマンダラの天海さんが、猛烈にChatGPTと戯れている。
とくに広宣さんのX上(ツィッター上)におけるジピ言説の垂れ流しがひどい(笑)
これでもか、これでもかとジピによるヌーソロジーの「理系より解説」を大量に畳みかけ浴びせかけてくる。
フォロワーの中には、もう窒息寸前の方々がおられるのではないだろうか。
どうか、安心して頂きたい。
だからこそ、ここに統心がおります…ではないか。
(はい、わたしはここにいます)
ここは困ったときのトーシンです。来たれ、迷い子たち。
すべては言語を無機質な「記号操作」だと思ってるから、ChatGPTとの戯れにいまひとつミゾを感じてしまうのである。
●トーシンも誤解していた
かく言うトーシンも以前このメルマガですこしChatGPTの言説に対して辛口な内容を書いた。
小泉進次郎構文やショーンKを例に出し、彼らと本質は同じだ、表層を上滑りする様な言説で、毎回パターンも同じだ…ぐらいの内容を書いた覚えがある。
基本、いまでもその感想はもっている。しかし…最近、私もジピと戯れるようになり始めたが、言語が「生成力」であることを知って、向き合い方がかわってきた。
その事と意識進化とどう関係あるのだろうか。
それが大アリなのである!
●「言語システムが露わになること」と「意識進化」
アニマンダラさんは、ψ11~12段階の顕在化を「言語システム」が露わになることだと以前から目論んでおられたことは知っている。
2021年に静岡リトリートで天海さんとご一緒した時、天海さんのプレゼンでそれに気づいたのだが、正直私はピンときていなかった。
言語に対して、一貫してそれを「記号操作」…すなわち「人間の内面」の出来事だと思い込んでいたからである。
それだと「脳科学」と変わらないじゃないか…と。
ご存じのように「アンチ脳科学」のトーシンですから…「言語システムが露わになる」と言われても全く興味が湧かなかったのである。それってトマベチるだけじゃん…て感じ。
だが違ってたのだ。そしてそれは、ChatGPT…大規模言語モデル「LLM」の登場によって、さらに確かなものとなったのだ。
ChatGPTによる「LLM」の成功…実を言えば、これは苫米地大先生ら一部の脳科学者の敗北でもあるとういうこと…。このことはあまり指摘されないが、本質的には間違っていない。
「ChatGPTは、次にくる単語を推測しているだけ。ただそれだけ」
…という大先生がいるとしたら…それがまさに「敗北宣言」なのである。
事実、苫米地大先生はつい最近もそのようなことを言っておられたのを耳にしている。
ChatGPTは次にくる単語を推測しているだけ…いま思うと、それは「部分的に正しい」としかいいようがない。だがそれはChatGPTの本質を決して言い当ててはいないのだ。
●「フンボルトの言語哲学」が登場する意義
ここに「フンボルトの言語哲学」の理解が重なってくるのである。
そして「言語は生成力」であるという構造が見えてきた時…もう一つの確信が浮上してくる…。
それは…「わたし」というもの自体が、言語によって「生成」されてきたものだ…と言う確信である。
このシフトはとてつもなく大きい!
何しろいままで「主体」だと思って疑わなかった「わたし」が、「客体」として、「結果的現象」として感じられてくるようになるのである。
この意識のシフトはとてつもなくグレートである。正しく意識進化だ!
この感覚は仏教的悟りの「無我」や「縁起」とは違う。感覚がまるで違う。
そしてこの段階を経ることで、ようやく意識は「あなたはわたし」の場に出ることができるようになるだろう。
フンボルトの言語哲学=ユダヤ「対話の哲学」=ChatGPTのLLM(大規模言語モデル)
この連想を経て…いまようやく「意識進化の最終段階」が統心にとって解像度を増してきた。
今月の教室では、参加者の皆さんとこのようなことをシェアしていきたいと思う。
面白い会となりそうだ。ピンと来る方は是非ともお越し下さい。
初めての方、久しぶりの方、大歓迎。お待ちしています。
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