テーマ:古ユダヤ精神である「対話の哲学」とは
~ 「絶対に逢えない」からこそ「出逢える」とは? ~
●ユダヤ精神とは「対話の精神」
ユダヤ根源の精神が「対話の哲学」にあるとはとても意外でした。
しかしながら、元クリスチャンの統心としては思い当たる節は確かにあります。
キリスト教における「信仰生活」の本質とは…奉仕や自己犠牲も大切なのですが、何といってもその本質は「祈祷生活」なのです。
「祈祷」です…祈祷。
こればっかりは…数々の宗派・宗教において体験を経てきたトーシンではありますが、キリスト教に特有のものであると言えます。
祈祷…ときけば、高野山の密教がやる加持祈祷とか、神社で受け取るご祈祷参拝やお寺での称名念仏とか…のこととしか普通は思い浮かばないでしょう。
ですがキリスト教における祈祷はまったく違います。まったく別物です。何らかぶるところがありません。
それは…対話なのです。父なる神と一問一答・一対一の対話です。お願い事じゃない。
それを日常生活でするのです。朝に夕に、たった一人になって、神との対話をしていきます。それが祈祷。
この祈祷が深まっていくと…実に不思議なことがおきてきます。
神からの応答が聞こえてくるのです。感じられてくるのです。
私の場合は、胸の内から声が聞こえました。声というか、明らかにメッセージです。
いや、いま思うと声ではありませんね。声というのは、受け取った後に自分が解釈するイメージでしょう。
●神との対話…トーシンの体験
ちょうど昨夜面白い夢をみました。そこで私は外国人と会話をしていました。青年時代にキリスト教関係で海外の人とも多く交流し、英語で聖書解説をしたこともある程ですから、いまでも時々夢の中で英会話をすることがあります。
昨夜の夢もそうなのですが、夢の中でならたどたどしいながらも自分の言いたいことをきちんと英語で伝えることができます。割と複雑な言い回しや慣用句なども駆使したりして、自分でも驚きます。
ところが…今朝奇妙なことに気づいたのです。私は一生懸命に英語で話しをして、その達成感を覚えていて、目覚めた後に一人悦に浸っていたのですが…よくよく考えると相手の外国人の話はスラスラと頭の中に入ってきていました。
「ん?」…今まで何度も見てきたこのタイプの夢に対して、はじめての疑問が湧きました。そこで立ち止まって考えてみました。
どうやらその外国人は日本語でしゃべっていた…いやいやおかしいぞ、日本語で話しかけてくる彼に対して、なんで私はたどたどしい英語を駆使して語っているんだ?
それではっきり分かったのです。夢の中では彼の「考え」がダイレクトに頭の中に入ってきていたのですね。それを頭の中で自然に日本語に変換しているものですから、てっきり日本語で話しかけられたと勘違いしていたのです。
でも相手に対しては拙い英語で応えようとしていたのです。相手が外国人であることを明確に認識しているのです。
祈祷時における「神からの応答」もこれに似ているなぁ…と思いました。
私の場合は、その神の思考はダイレクトに胸、時には腹に入ってきました。そこで明確にメッセージとして、「言葉」として受け取っていました。
その言葉を受け取り、神に対して私の言葉を返していくのです。それが祈祷でした。
…とまぁこんな感じで、キリスト教における「祈祷」とは「神との対話」そのものだったのです。
おそらく真性のユダヤ教においても、この様に「神との対話」をしているのでしょう。
なるほどユダヤ精神とは「対話の精神」だったのです。
●根源語としての「2人称」…すなわち「あなた」
19~20世紀にかけて、ヨーロッパにおけるユダヤ民族全体が危機に瀕している時、研ぎ澄まされた一部のユダヤ人学者たちが模索した「古ユダヤ精神」への回帰…それが「対話の哲学」でした。
そこでは「言語」自体を見直す…という思索が展開されていきます。
詳しくは教室で取り上げますが、例えば言語の「1人称・2人称・3人称」…について。
対話の哲学はこう言うのです…この中で明らかに異質なものがある…それが「2人称」である、と。
1人称と3人称は結びつきます。「わたしはペンを取る」「わたしは彼を見た」…ここに出てくる「わたし」は1人称、ペンや彼は3人称です。
この関係は「我とそれ」の関係なのです。言語が客観的事実を記述する時の形態。
言語の役割がこれだ、客観的事実を記述することだ…と、私もそれまで漠然と思っていました。
ですがこれが…なんとプラトン以来の2千年以上に渡って、西洋世界全体が言語に対して抱いてきた「勘違い」だと言うのです!今日に至ってもその誤解は続いている…。
●言語の本質は…客観的事実を述べること…じゃない!
言語の本質は客観的事実を述べることじゃない、ものごとにラベル(名詞)を貼り付けて、誰でもがその概念分かり易く共有できるようにする…ってことじゃない!
私は驚きました。私が言語に対してよい印象を持っていなかったのも思えば…ヌーソロジーでも度々、言語は「思形の働き」と解され、それは「人間の内面」を創り出すものです。
人間の内面とは情報空間であり、ここを駆使することが今日の文明発展に繋がったのですが、それは自然からの乖離でもあり、自然破壊や環境危機を同時に招いています。
言語はまた「父の働き」とも言われ、ヒトの思形Ω9はまさに「一神教精神」として人間を抑圧するものとされてきました。父なる神がユダヤ~キリスト教の精神を創り出し、そこにおいては「言葉」が重要視される…ユダヤ精神とは言葉の精神でもあった…という風に。
ところが…このユダヤ「対話の哲学」によれば、そういったユダヤ理解は誤解なのです。というか、それは世俗化した「幅的ユダヤ」なのであって、真のユダヤ精神はそうではないんだと。
そんな「対話の哲学」を理解する為には、「言語」に対する考え方を全く変える必要があるのだと言うのです。
●言語の本質は…対話すること
「対話の哲学」によれば…言語とは「あなたと対話」するためのものなのです。
もっと言えば、あなたの心を理解するためのものです。そしてわたしの心を理解してもらうためのもの。
客観的事実を記述することが目的じゃない、心を理解しあうことが目的なんだって…これってまるで「日本語の精神」じゃないですか。
主語を必要としない日本語は、ただただ感情を共有するための言葉使いをすることがあります。
もしかすると…この「主語」自体が、古ユダヤ精神からすれば「偶像崇拝禁止」に抵触していたのかも知れません!
だから古ユダヤ精神と日本語的精神は同じ所を見ているのかも知れないのです。何と言うことでしょう!
客観的記述ではなく、心を理解し合うことを目的とするならば…言語の本質であり根源となるものは「2人称」である…すなわち「あなた」…
世界は「あなた」から始まった…これが古ユダヤ精神の言わんとすることだった!?
深いぃ~~。実に深いぃ~~。
●第一声は「ボクは誰?」じゃない
私はてっきり、意識の目覚めとは「わたしは誰?」だと思っていました。
もしも木造のピノキオが意識を持つとしたら、その第一声は「ボクは誰?」に違いないと。
しかしながら…対話の哲学はそうではないというのです。
第一声はまちがいなく…「あ・な・た…ダレ?」……
関西在住の50代以上の人なら、ここで「ハナテン中古車センター」を思い出すかも知れません…が、そのようなジョークは野暮というもの。
ここは泣くところです。事実、私も涙が出るのをこらえて、照れ隠しでギャグに逃げています。
さあ涙も引いて落ち着きました。はい、古ユダヤ精神が伝えんとする宇宙の始まりは「あ・な・た…!」…だったのです。
おっと…また感情が高ぶって、モニター画面がよく見えなくなってきました。なんだこの薄い膜は…見えにくいぜ…ティッシュで拭き取ることにしよう。
ということで、今月はまず古ユダヤ精神と「対話の哲学」とは何ぞや?…について見ていくことにしましょうか。
「対話の哲学」の系譜として、上であげたブーバーやベンヤミン、レヴィナス…と行きたいところですが、トーシンの探究はまだまだそこまで及んでいません。
まずは「対話の哲学」の祖といえるヘルマン・コーヘン(1842-1918)をとりあげ、彼が探究した「古ユダヤ精神」とは何だったのか…というところを探ってみたいと思います。
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