テーマ:脳からの脱出(Exodus 2024)
~ そして、遂に明らかになる「シン・鏡の法則」とは? ~
●「人類規模」の危機を根本解決するには
戦争・格差・差別・・・そして迫り来るデジタル管理社会と人間性の抑圧・・・
山積する問題を根本解決し、人類を破滅の危機から救い出すには
「脳神話」からの脱出しかない
と今やトーシンは本気で思っている。
逆に言えば、「脳神話」と根本的に決別していない「脳」が
何を考えようと解決しようと目論んでも
新たな問題を生み出すだけで、決して危機から逃れることはできない
・・・とトーシンは確信している。
●「脳神話」とは何か
「脳神話」とは、人間は感覚器を通して外界を知覚し、それが脳内で表象を作る・・・人間の精神活動とは、この脳内の表象活動のことであり、それ以外の何ものでもない・・・という見方・考え方のことを言う。
現代では脳科学・神経科学が発達し、そのうえコンピュータ&情報工学の急激な発展も伴って
人間の精神活動は、コンピュータプログラムの活動とほぼ同相として見られるようになった。
コンピュータも人間の脳神経も「情報処理」という観点では同じことをしている・・・というのである。
トーシンはこれを全否定する。
というかヌーソロジー、およびヌーソロジーに先行すること100年のベルクソン哲学の系譜は、これを断固として否定する・・・ということ。
「脳は行動の道具であり、表象の道具ではない」・・・がベルクソンの言い分。
分かり易く言うなら、脳は表象を作らない、脳内現象=精神活動ではない、ということ。
ただしベルクソン哲学は100年以上も前のものだからアップデートが必要である。
それは脳科学・神経科学・コンピュータ情報科学がこの100年で想像を絶するほど発達しているからである。
そこでヌーソロジーの出番となる。ヌーソロジーがベルクソンのバトンを受け継ぐのだ。
※実はベルクソンのバトンを受け継ごうとしたのがドゥルーズ。いま思えば、ドゥルーズの意図がよく分かる。そしてそのドゥルーズのバトンを受け継ごうとしてるのが、半田広宣氏のヌーソロジー・・・というワケである。
●ヌーソロジーの強み・・・人間の内面と外面
ヌーソロジーにおいては脳内表象を「人間の内面」としてきちんと定義できる。
その上で、真の実在の方向を「人間の外面」として見出そうとする。これは哲学史上、もの凄い進歩なのである。
きっと、間もないうちにこの真価を世界中の人が理解する日が来るだろう。
それで、人間の内面と外面とはきっちり「反転」している。
反転しているとは、「違う」ということである。次元がちがう。決して混じり合わない。
こちらを立てればこちらは引っ込む。二律背反の関係、矛盾の関係にある。
だがそれをひとつの関係として直観的に捉えることができる図式がある。
あの奇跡のオイラーの公式「eiθ =cosθ+isinθ」・・・複素平面上の単位円の公式がそれだ。
この単位円において「虚数」と「実数」というあり得ないペアが
ひとつの「直交関係」として統合される。
●ベルクソンの方法
実はベルクソンは哲学においてこれを為し遂げようとしていた。
精神と物質を直交関係として統合しようとしたのである。
その統合のカギは「記憶」であると彼は睨んでいた。
薄まった記憶、瞬間的に切り取った記憶の断片が「物質」の正体。
凝縮した記憶、全体が凝縮し、一度も途切れることのない連続不可分のものが「精神」の正体。
すべては「記憶」なのである。
ここから当然のごとく、記憶の本質は脳内にはない・・・ということになる。
これがベルクソン哲学の「第2法則」だ。脳は記憶を保存しない。
記憶は脳を溢れている。記憶の方が(脳よりも)もっともっと巨大である。むしろ脳自体が記憶の一部なのである。
そして「第1法則」は「脳は表象を作らない」である。脳内現象は精神活動ではない・・・ということ。
●精神活動は脳内現象ではない
精神活動は脳内現象ではない・・・とはどういうことか。
精神活動は脳内ではなく、いま目の前のそのまんまである・・・ということである。
いま目の前の世界がそのまんま精神活動であり、実在の世界である・・・ということ。
真にこの認識に達すれば、主客は一致する。
主客が一致すれば、心身が統一される。
心身が統一されれば、宇宙と一体になる。これは神人合一とも言える。
ついでにいうと、この認識によって主体は前に移動する。
前に移動することで「共感回路」が開通する。
共感回路が全開すれば、やがて「あなたはわたし」の領域が自然と訪れる。
「脳内現象=精神活動」という前提と根本的に決別していなければ
いつまでも後ろ側の主体である自我が付きまとい
その自我はあらゆる人間的な腐敗の温床となる。
●これこそがトーシンのライフワークだ
さてこれらをいかに分かり易く表現するか。
科学隆盛の現代人が納得できる様なカタチで提示できるか。
これこそがトーシンが全身全霊で追求するライフワークなのだといまや確信している。
そして半田さんがなぜあれほどに素粒子にこだわり続けるのかが、いまや良く分かる。
オカルトやスピリチュアルの神秘的ムードを漂わせてスタートした2000年前後のヌース理論が
いつの間にか哲学や数学物理のゴリゴリ知的路線を爆走し、「神秘」とは真逆の道を突き進んでいることに不満と嫌気を持った方は多いだろう。
気持ちは分かる。だがそんな人は一呼吸おいて考え直してほしい。
「脳内現象=精神活動」から脱却していないものが扱う「神秘」は「妄想」でしかない。
だがそこから脱却したものが扱う「神秘」とは「実在」であり目の前の世界すべてなのだ。
半田さんはそれを「素粒子」として、誰もが否定できない共通理解の図式として顕そうと懸命になっておられるのだ。
トーシンの場合は、現場における実践面として「脳からの脱出」がそれだと気づいたのである。
●時は流れず
そして「時間」は止まる。
そもそも「時間」が流れるということ自体が錯覚であったことに気づくだろう。
私たちは生まれてこのかた1ミリも移動などしていない、ずっと「ここ」だ(不動の空間)。
そして時間は少しも流れていない、ずっと「いま」である(不動の時間)。
時間は流れていないのだから、私たちは最初から「因果律」とは無縁なのである。
因果とは結果的現象に現れる関係性にすぎない。
私たちは因果の外にはみ出している。あふれ出している。だから「自由」であり、それが「精神」なのだ。
今回の教室では、「脳からの脱出」においていろんな角度からみていきたいと思う。
いままで小出しに語ってきたことも多いが、整理統合することできっと新たな地平が開かれてくることだろう。
●そして「シン・鏡の法則」が登場
その上で・・・今回のブートキャンプで持ち帰った最大の成果物
「シン・鏡の法則」
を皆さんとシェアしたい。
私たちは鏡に映った内容物を見ているのではない(それは人間の内面側)。
私たち自身が鏡だったのだ(これが人間の外面側)。
いままで語られてきた「鏡の法則」は、確かに有用であった。
世知辛い人間世界を渡り歩くために、必要な知恵であることは間違いない。
「人の振り見て我が振り直せ」に始まり
「人にしてほしいとあなたが望むことを、人々にもそのとおりにせよ」というイエスの金言に到るまで・・・
人は鏡・・・目の前は己を映し出す鏡、その鏡をみて自分自身を知れ・・・これらがスピリチュアルの王道であることは間違いない。
だが今にして分かる。これらはみな「人間の内面」における法則にすぎない。
いまこのマトリックスから脱出するためには、これではなく「人間の外面」の法則が必要なのである。
それが「自分自身が鏡」であったということ。
自分自身が鏡であったのなら・・・何が何を見ているというのか。
実像が鏡で反射すると鏡像を作る。
その鏡像を見ているのは実像自身である。
これが鏡の原則だ。
だから従来の鏡の法則はすべて、いま見ているものはすべて自分自身が映し出されていますよ・・・という図式であったことは理解できるだろう。
目の前が鏡像だということに気づきなさい・・・ということ。
だが外面の鏡はそうではないのだ。
外面では「自分自身が鏡」なのだ。
ここに「鏡像を見ているのは実像」であるという原則を適用するとどうなるか
すると見ているのは・・・このワタシではなく・・・目の前の「モノ自身」ということになるではないか。
・・・ナヌッ∑(・ω・; )???
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