テーマ:「即非の論理」と顕在化
~ 「切断即連続」、そして「場の論理」から「空間脳」へ ~
●「即非の論理」とは
「即非の論理」と言えば、鈴木大拙の代表的な思想として知られている。
※鈴木大拙(1870-1966) 金沢市出身、世界的に有名な仏教学者。英語で禅の本を著し、日本の禅文化を海外に紹介した。
仏典『金剛般若経』に出る独特の言い回しを取り上げて、大拙はこう述べる(出典『金剛経の禅』鈴木大拙著)
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「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名づけるのである」、こういうことになる。
これが般若系思想の根幹をなしている論理で、また神の論理である。
また日本的霊性の論理である。
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大拙はこのあと、さらに次のように言う。
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これを公式的にすると
AはAだと云うのは、
AはAではない、
故に、AはAである
これは肯定が否定で、否定が肯定だということである。
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AはAではない。まさにそのことによってAなのである…。
分けが分からないでしょう?
そう、それが正常な反応です。普通は分からない。ただのキ印だ。
だけど顕在化道を12年も歩んで来た統心は、いまやこのことが深く理解できる様になった。
以前のレクチャーにおいても、それなりに「メビウスの帯」などを使って解説したことはある。
なるほどメビウスの帯は、「表=裏」という「矛盾」をカタチとして視覚認識できる…これぞ正しく顕在化…だから、「即非の論理」をそれなりに表現はできる。
分かってなかったとは言わない。ニュアンスは充分感じていたつもりだし、その時点でのヌーソロジー理解を駆使して、変換人の「矛盾の論理」を何とか説明していた。
だが今から思えばずいぶん拙い説明だった…大拙だけに、大へん拙い。
今は違う。もっと深く、正確にお伝えし、皆さんをこの「領域」まで引きずりこむ自信がある。
そして、一見「即非の論理」ふうに見える解釈が、実はまったくの的外れであり、むしろ本質からは逸れてしまうという…そのあたりの「違い」も明示できると思う。
●「真」に近づくほど「偽」にもなる
「真理探究」の道においては、「分かったふう」という落とし穴が至る所にある。
探している道は見えない。それはこの世に「直交」しているからである。
直交成分は滞在している空間からははみ出している。
垂直と水平であり、奥行きと幅のことだ。
1度でもずれたら、それは垂直ではないし、奥行きではない。
0.0001ミリずれてもそれはすでに幅なのである。
そして統心がいつも言う「偽札の例え」。
子供銀行のお札に害はないが、精巧に作られた偽札は犯罪になる。
求道のプロセスとは、「真」に近づくほど「偽物」にも近づいているという矛盾がそこにあるのである。
●即非の論理は、日本的霊性の論理
大拙は「即非の論理」を「日本的霊性の論理」であると言う。
ここは偉大なる先人に敬意を表し、喜んで鵜呑みにしよう。
そう、これが日本的霊性なのだ。
これは「潜象界」への気づきとも言えるだろう。
日本的霊性とは、潜象界を感じ取る感性のことだと思う。
現象界と潜象界…オモテに現れる現象界の背後、そのウラ面には潜象界がぴたりと重なっている。
これは「因果関係」ではない。ここが先ほど少しふれた誤解のひとつでもある。
因果というのは時間的な関係であり(流れる直線的な時間上の関係)
因から果へと進む。必ず両者の間には時間的な分離がある。
現象と潜象はそうではない。時間的な分離はない。同時的だ。共に「なかいま」にある。
だが同時でありながら、この両者は同じ水準にはない。
全く交わるところはない。空間が違うということだ。
だからこの関係は「矛盾」でなければならない。
矛盾とは、一つとして同じ所がなく、同時には成立しないことである。
同時には成立しないことが同時的とはどういうことだ?
だから成立している空間が違う…ヌーソロジーではこれを「反転」という。
●「円心図」にはご注意を
ところが…この「反転」を説明してしまうと、それを理解する者の脳内平面では「同じ水準」になってしまう。
統心がいつもいう「円心図」を見る時の注意点だ。
ヴェシカパイシス…円心図…あの図の本質は、ひとつの円のウラには反転した円がもうひとつあるということ。二つでひとつ。
だが図では両方の円が一つの図として表されてしまう。そのことを言っている。
「まったく違う空間」なのに、同じ空間上で説明されてしまう。
この様な状況をヌーソロジーでは「中和」と呼んでいる。
差異が見えなくて、同じ水準で見てしまう状況のことだ。
こういう理解を積み上げてしまうと、自分自身が「それ」になることができなくなっていく…。
あの「領域」に参入できなくなってしまう。
●「自我は評価関数」…という天才・苫米地博士の理解
現象と潜象はそういう「矛盾」の関係だが、それは「否定」の関係でもある。
潜象界は、自身のすべてを否定して現象界を送り出してくる。
だがここにも注意が必要だ。
例えば、あの天才・苫米地博士の理論にこういうのがある。
「私を成立させているのは、私以外のすべて」だと。
苫米地氏によれば、私(自我)とは評価関数のことであり、全世界の存在物から自分に関係のあるものだけを抽出する「関数」である…と。
逆に、私に対してその「逆関数」をかければ、今度は全世界が出てくる…と。
なるほど、実に説得力のある内容だ。さすが天才である。
だが、このような理解がもっとも真実から遠ざかるものだと統心は思っている。
●苫米地理論の何が問題か
…私とは私以外の全ての要素がウラ支えしている…
私以外なのだから、それは「否定」である。
まさしく「否定」によって、私はいまここに成立している。
論理的にはそうだ。そしてこれは「即非の論理」を説明しているかの様にも思える。
だが「私と私以外」という理解が…先の苫米地氏によれば「集合論」になっている。
これは「世界」という全体集合の中で、各要素を同じ水準で見ていることでもある。
頭の良い人はいつもこうだ。すべてを俯瞰する目線。そして成績がよく、社会的実績も突出している。
私はずっと、こういうタイプの頭の良い人には違和感を持っていた。
何かが違う…ずっとずっと違和感があった。
でもいまなら良く分かるよ。
これは「幅」の理解なのです。ここでいう「私と私以外」とは幅的水準。
そしてこれは「相対的関係」…相対論的な思考。
●現象と潜象は「絶対的関係」
現象と潜象…即非の論理はこれではない。似て非なるものだ。
先の幅的理解が「相対的」なのに対して、こちらは「絶対的」な関係。
現象界は潜象界の「絶対否定」によって押し出されたものである。
私とは「私を絶対否定」するものによって押し出されたものである。
私を絶対否定するものによって、私は支えられているのである。
私を絶対否定するものとは何か…
…それは「他者」である。他者しかあり得ない。
他者とは「絶対的に自己ではない」ものだ。
そのような他者がこの自己を支えているのである。
なお、ここでいう「否定」にネガティブな意味は全くない。
否定がネガティブなのは「相対否定」の関係の時である。
他者を否定して自己を肯定する。他者を引き下げて自己を揚げる。
相対否定は勝ち負けだ。相手が負けてくれると自分が勝つ。
逆に自分が勝つときは相手が負ける。いわゆるゼロサムゲーム。
何とも世知辛い、殺伐とした悲しい関係ではないか。
そして「人間」はこの関係しか知らないのだ。
いや、このような関係性の水準にたたき落とされているのが人間なのだ。
●絶対否定と相対否定のちがい
現象と潜象はそうではない。
潜象は現象を否定…というよりも潜象自身を否定=絶対否定し、現象を押し上げる。
ここが相対否定とは違うところ。相手を押しのけて自分を成り立たせるのが相対否定。
相手を持ち上げて、自分をさげすむ相対肯定も同じ水準である。
絶対否定は違う。自分自身を完全否定し、相手を別領域へと押し出す。
現象は潜象によって絶対否定されるのだが、それは即、絶対肯定となってウラ支えされる。
絶対否定、即、絶対肯定なのである。
これが奥行き・絶対の関係。
先の相対否定・相対肯定は幅の関係である。
要は、苫米地氏の集合論・関数の理解では、日本的霊性に触れられないということである。
事実、苫米地氏の論理においては「空」が最上位となり、最下位に「矛盾」が来ると。
つまり宇宙の本質は「空」だという。
でも日本的霊性やヌーソロジーはそうではない。
宇宙の本質は、まさしく「矛盾」なのだ。むしろ矛盾の方が本質なのである。
(苫米地氏が最下位とする「矛盾」は、ヌース的にはむしろ本質ですよ、という意味)
それは「現象-潜象」の様に同時存在として、絶対肯定・絶対否定の関係として、いまここに「奥行き」的に共存している。
私を私ならしめているのは、私以外の全て=私を絶対否定するもの=他者(あなた)…ということである。
永遠の我と汝の関係…これ、西田哲学である。
西田幾多郎の晩年の境地「絶対矛盾的自己同一」とは「即非の論理」のことである。
この様な奥行きの領域に意識を侵入させていくことが正しく顕在化だ。日本的霊性の復活である。
※苫米地氏をディスっているわけではなく、彼の論理はあくまでも西洋論理、対象論理であるということ。それに対して西田や大拙が追いかけたのは東洋論理であり、さらには日本的霊性であった。この論理はそのままヌーソロジーに繋がっている。
●薪が燃えて、灰になる……のではない?
「即非の論理」を探究したのち、「切断即連続」について見ていこう。
道元禅師は言う「灰はあと、薪はさきと見取すべからず」
薪が燃えて、その結果、灰になる。これが常識的な見方。
だから「さきに薪」があり、「燃えたあとで灰」になると。
道元はこの様な見方をしてはならない…というのである。
道元によると「薪は薪」であり「灰は灰」なのだと。
さらに「前後際断あり」…とも言う。
薪と灰は別のものだと言うのだ!
だから薪と灰の間にはスキマがある。決して連続変化ではないと。
しかし、常識的には薪が燃えて灰になる…連続変化である。
それがそうではない…???
そうだ…まさに「即非の論理」と同じ類いの思考である。
薪と灰は別のものだ。断絶している。しかし、断絶しているからこそ連続する…。
実際の道元の言い回しからはすこし変調して書いたが、彼の言いたいことは外していない。
人間が常識的にみている「因果関係」というのも、それは表面的であり、現象的であり、幅的だということ。
そのような見方しかしていなければ…「領域」に参入することは決してできない。
因果律に引き込まれたら、かならず「いま・ここ・わたし」を見失うことになる。
そうではない見方をしていく…即非の論理、この場合は「切断即連続」…そのことで、奥行きであり日本的霊性に参入していくのである。
このあたり…前回の「純粋過去と純粋未来」などと関連して、ヌース的に非常にオイシイ香りがしている。
理解することが、そのまま参入となっていく…そのような顕在化の領域を共に開拓していこう。
●「モノは空間のフヨウ物」byオコツト
そしてこのような理解の仕方が「場の論理」というものであり、ヌース的には「空間脳」の発現ということになる。
「モノと空間」は「現象と潜象」の関係なのだ。このことが分かるのが「場の論理」である。
「モノと空間」を単なる「図と地」として見るのは相対理解にすぎず、これでは何も変容は生まれない。
ヌーソロジーでもゲシュタルト反転の例として「ルビンの壺」をあげることがあるが、あの理解のままでは「中和」に留まってしまう。先ほどの「円心図」と同じだ。
「場の論理」そして「空間脳」は、それでは開かない。
「空間脳」を開かなければ、人間はほどなく「電脳」にとって変わられることになるだろう。
「電脳」とは完全なる「他者化」である。自分の「感じ方」を失った屍である。
それに対して「空間脳」は「あなたはわたし」へと意識を導いてくれるだろう。
そこはお互いの感じ方を共有し、共感できるあの「領域」なのである…。
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