テーマ:「質」と「量」の転倒を追求する
~ ベルグソン『試論』、そして「真の自由」を求めて ~
私はヌーソロジーが大好き。
三度の飯よりヌーソロジー…もうそんな生活を15年以上している。
24時間365日…ずっとヌースを続けている。
私にとって「ヌースする」とはどういうことか?
トウシンは毎日事務所に引き籠もって何をしているのか?(笑)
いまから約15年前の2009年9月…私は初めて福岡にある半田さんのオフィスを訪ねた。
半田さんが7年の沈黙を破り開催した「ヌースレクチャー2009」に参加する為である。
初めてお会いした半田さんは、あの超・明るいウェルカムな雰囲気、満面の笑顔で私達を迎えてくれた。
いま思うと当時の半田さんの年齢が54歳…現在のトウシンと同じ年齢ではないか!実に感慨深い。
一番前の席に陣取って、期待と神秘が胸中に広がるドキがムネムネの私の前で、初ヌースレクチャーにおける開口一番の半田さんの語りが忘れられない…。
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…西田幾多郎の言葉にこのようなものがあります…
「自然が歴史を生んだのか? 歴史が自然を生んだのか?」
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初めて聞いた時は頭の中が「???」となった。
「言葉の意味は分からんが、とにかくすごい内容だ!」
直感で、肌感で、これが凄い内容であり、これこそ私が求めていた内容であった…とだけは分かった。
いまではこの内容もトウシン流にいろんな角度からレクチャー等で解説している。
「歴史」とは「直線的な時間の流れ」と考えればよい。
「自然」とは「存在」そのもの、実体であり「モノ自体」のことだ。
すると、この西田の言葉はこう解釈できる
・「時間の流れ」の中で「存在」が顕れてきたのか
・「存在」が先にあって「時間の流れ」は後から出てきたのか
つまりはこういうことである。
この「存在」が先・「時間の流れ」は後…と思考するのがヌーソロジーなのだ。
それまでの私は長年のクリスチャン生活の思考癖があって
まず初めに「神」またはサムシング・グレートなる偉大な何かがあり
すべての存在はそこから創造、または流出してきた…という歴史観が根強くあった。
この歴史観は「神」以前を思考しないし、そこから始まった「歴史=時間」は直線的に流れて、永遠の彼方へと続いていく…もしくはある種のクライマックス・最後の審判を迎える…という感覚になる。
このような歴史観の中に生きると…人間は「結果的存在」「被造物」のポジションに封じ込められてしまう。
それが本性であれば、それも居心地よくて良いのだろうが…私の場合は息が詰まり、何とか脱出したくて全身が爆発するような衝動があった。
いま思えば…やはりこの歴史観は「本性的」ではないのだ。私の本性が窒息しそうで暴れようとしている…それが何よりの証拠だった。
そこに、レクチャー冒頭の半田さんによる西田の言葉の引用と解説である。
半田さんはそれを「無時間」領域と言った。
ヌースは「無時間の思考」であると
「トランスフォーマー(変換人)とは、この時間概念を成立させている基盤自体を解体させ、無時間という場所から宇宙の生成原理を構成していく知的作業に就く者たちのことをいう」
初めて会った54歳の半田さんは渋くこう語った。
無時間の思考…これだよ、これ。
幼い頃からずっと「今」のナゾを追いかけて来た。
なんかおかしいぞ、この「今」は。
だって、意識した瞬間に過ぎ去っていく。捕まえることができない。
実際にあるのかないのかも分からない。
でもそんな「今」の只中に私は生きている。
これは凄いことだ…ここに宇宙の究極のナゾがある!
この事を解明できるなら、明日に死んでもいい!
冗談ではなく本気でそう思っていた。
サンプラザ中野の「健康の為なら死ねる!」ほど矛盾はしてないと思うけど…。
無時間の思考…さらにそこに、ヌーソロジーは「反転」を勧めてきた。
何もかも反転する。全部逆なのだ。全部逆さまなんだよって。
それを「構造」として解明し
なぜひっくり返っているのか
それが分かれば元返す帰路も見えてくる
それがヌーソロジーの最高に面白い醍醐味なのだ。
ということで、初めに戻ると
トウシンが毎日やっている「ヌースする」とは
この「ひっくり返し」なのである。
人間がずっと思い込んできた錯覚・固定観念・常識を見事にひっくり返す
ひっくり返せば、それまでの閉塞状況が一気に打開して、青空の如くすがすがしい霊流が流れ込んでくる…それが気持ち良くて止められない
そのひっくり返しのセンス、その大先輩にして大天才なのがフランスの哲学者ベルグソンだ。
ベルグソンは100年以上も前に…人類が犯す根源的な過ちのクセに気がついた。
それが「質と量の転倒」なのである。
ああもう…トウシン的にはこの「質と量の転倒」って聞くだけでご飯3杯いける(塩は少し欲しいけど)。
もう嬉しくて嬉しくて仕方がない!
人間は「質と量が転倒」してしまうんだよ。そこに気づいていないんだ、人類のほとんどが!(文明人のほとんどが)。
だからボクの、アナタの、その苦しみの原因は、突き詰めるとすべてここにあるんだよ…それが「質と量の転倒」。
例えば、ベルグソンはこんなことを言う
「温覚と冷覚は、近年別々の細胞・神経を通して受容していることが分かった」
もう100年以上前の情報であるが、いま調べても確かにその通りだった。
で、それで?…って、よく考えてみて欲しい。
「温覚」と「冷覚」は別の回路が受容する「違った感覚」なのである。
しかし人間はそれを生活の中で、何かの媒体の温度が上がれば「温かい」、下がれば「冷たい」とするのではないだろうか。
例えば「水が冷たい・温かい」「空気が冷たい・温かい」…など。
そしてその違いを「温度計」によって数値化しないだろうか。
何度だったら熱い、何度だったら快適、何度だったら冷たい…と。
まさにこの瞬間、「質」として与えられていた「感覚」が「量」に転倒させられてしまうのである。
こうやって私達は生活のいたるところで質を量に置き換えることを、まったく気づかないうちにしてしまうのである。
するとどうなるか…すべてが数値に置き換え可能となり、やがては人工知能の制御下に置かれる様になって…とSF的飛躍をしても決して冗談ではない。
「頭の中」が「肉体や自然」から徐々に引き離されていくのは容易に想像できるだろう。
何よりも、質が量に転倒することによって「感じ方」を忘却してしまうのである。「感じれなく」なるのだ。そう「不感症」になるのである。それは最悪だ。
ヌーソロジー的言えば「感性空間」が閉じてしまうということ。「思形空間」だけになってしまう…これが頭でっかち人間。感じ方を忘れた人間。
さらにベルグソンは、このことが「自由意志」の問題にまで繋がっていると解く。
「自由意志」は「人間の尊厳」にして「魂の価値」と言ってもいいだろう。
そんな私達の生きる「価値」の根源が「質と量の転倒」によって奪われていく。
「質と量の転倒」によって、人間はやがて生きる意味を喪失してしまうのである。
ここまで思考するベルグソンの凄さが分かってもらえるだろうか。
そしてこういう「思考」を日夜展開していくことが、私にとって正に「ヌースする」ことなのである。
2月度教室においては、トウシンの大好物である「質と量の転倒問題」をオカズに、あれこれヌースを展開していくことにしよう。
興味のある方はどなたでも大歓迎です。
とうしん勉強会は、初めての方でもベテラン勢でも楽しんで頂ける路線をひたすら走り続けます。
京都ライブと大阪レクチャー、どちらも「性質」が違う教室なので両方オススメですよ。
★2/20(火) 京都教室ヌースライブ
場所:ウィングス京都 会議室11(地下)
午後6時半~9時
◎京都教室はライブ感覚重視
統心のフリートーク中心に自由にやっています。
毎回楽しい会となり、とても好評です。
※京都は「場の変容」を体験する実験的ライブです!
★2/24(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
午後1時半~5時
※今回はいつもと同じ「阿波座」のルーム8です。
◎大阪教室はビデオ撮りするレクチャー形式
テキスト・スライドを作り上げ、構成しっかりで臨みます。
時間もゆったりで、アフターも楽しいです。
※構築美の大阪レクチャー、懇親会も盛り上がります!
※京都&大阪のW参加で意識進化をブースト!
・定員20~30名(制限はありません)
・体調の悪い方はご遠慮ください
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