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2023年10月の方向性

今月のテーマ:「十種神宝」とヌーソロジー

~ 失われた秘宝を求めて。そして、太陽・地球・月の奥義へ ~

 

2023年1月9日・・・私のいる大阪市淀川区、直ぐ側の淀川河口にマッコウクジラが迷い込んだところから、この1年は始まった。

 

今年はいったいどのような年になるのだろうか。クジラは何を導いてくれるのだろう。

 

「顕在化」の道筋は、すべて「前」が送り出してくれる。クジラの件を皮切りに私の期待はふくらみ、例年以上にワクワクしながら待つことになった。

 

その頃から何故か「十種神宝」が気になりだした。理由はない。何気なく、ふと。

 

そんな折、1月25日にまた別のニュースが流れる。

 

『国内初確認の「盾型銅鏡」が出土』

 

随分と鼻息の荒い記事だった。考古学には疎いためピンと来ないが、さすがに「国内初確認」にはビビッときた。

 

「盾型銅鏡」・・・これって「銅鏡が2枚じゃん」

 

記事の写真を見てすぐにそう思った。その形状は縦長の「盾」のカタチをしているが、図柄を見れば円形の文様が上下に2つ並んでいる。まるで銅鏡が上下2枚ある様なカタチ。

 

「2枚のカガミ・・・沖津鏡と辺津鏡・・・」

 

すぐにそう思った。何やら「十種神宝」のニオイがして来た。

 

まさかな・・・そう思ってYouTubeを覗いて見る・・・すぐに此度の出土に興奮する考古学ファンのチャンネルが出てきた。

 

そのYouTuberは大変興奮していた。その熱が考古学オンチにすら伝わるぐらいに。

 

発見された場所は奈良市の富雄丸山古墳。

 

4世紀後半の古墳らしいが、この時期はいわゆる「空白の4世紀」・・・参照するための中国の文献に記述がまったくない時期で、ヤマト王権成立のナゾが隠されているのは間違いない。

 

それに富雄丸山古墳とくれば、「とみお」→富王→登美の長髄彦(とみおながすねひこ)

 

この古墳がナガスネヒコに関係するのは間違いなく、ナガスネヒコと言えばニギハヤヒ。

 

そしてニギハヤヒと言えば「十種神宝」。

 

やはり来たか・・・今年は「十種神宝」を探すことになるなぁ・・・。

 

思えば今年はψ11顕在化の年。ψ11と言えば「ψ9~10の等化」・・・ク(9)+ジ(10)+ラ(場所性)・・・である。

 

ちなみにクジラは、思形(9)と感性(10)の統合とも言える「トーン言語」の使い手だ。

 

またψ11~12は「位置の同一化」にして、顕在化の「最終ステージ」である。

 

もしかして「意識進化のプロセス」がすべて顕在化することと、「十種神宝」が顕在化することは同じことではないか・・・。

 

天孫ニニギと三種の神器・・・アマテラスが天孫降臨の際にニニギに授けた三種類の宝物。

 

しかしながら、ニニギよりも以前にもう一人の天孫がいた・・・その名はニギハヤヒ・・・物部氏の祖であり、歴史の表舞台から隠れた側の系譜。

 

ヌーソロジストの大半は間違いなくニギハヤヒに関心がある。

 

そのニギハヤヒがアマテラスより授かった神器が「十種神宝」である。

 

隠された10個の宝物・・・これはイスラエルの「失われた10支族」にもシンクロしている。

 

いま渦中のイスラエルである。

 

失われた10個の秘宝・・・「十種神宝」を取り戻すことがヌーソロジストの使命なのではないか。

 

 

そんなことを思いながら過ごしてきたこの10ヶ月間。

 

この10月最後の教室で、その「失われたアーク」を開くつもりで歩んで来た。

 

元ネタは2016年3月に大阪で行われた「NOOS LECTURE 2016」・・・広宣さんによる大阪レクチャーの最終回。

 

ここで披露された「ヌーソロジーによる十種神宝解説」は驚愕の内容だった。

 

十種神宝が次元観察子の顕在化やその構造と密接に関連がある・・・というか、ほとんど「そのもの」ではないか・・・。

 

当時の統心は、まだψ9以降の観察子に対して(実践的に)取り組んでおらず、話を聞いただけで流れてしまったが、いまは違う。

 

ψ9~10と顕在化の道を歩み、いまやψ11の半ばで格闘中である。例の「伊吹山9合目」・・・最終ステージだ。

 

今回は2016年の広宣さんによる斬新な解説を土台に、統心による気づきを加えた関西ヌースらしい味付けにして「失われたアーク(聖櫃)」を探究しよう。

 

果たして失われたアーク・・・「十種神宝」の十番目ラスト、「品々物比礼」は見つかるだろうか?

 

※失われたアークと言えばインディ・ジョーンズ。この夏、そのシリーズ最終作となる『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』を見てきた。作中の舞台は「1969年」・・・アポロ月面着陸の年であり、私の生まれ年でもあって感ずる所大いにあり。