テーマ:脳と記憶(物質と記憶 パート3)
~ まるでアカシックレコード!ベルクソンの「純粋記憶」を実感せよ ~
ベルクソン『物質と記憶』シリーズの第3弾となる。
今回は「記憶」の問題に分け入ってみよう。
4月のパート1、5月のパート2を通して「イマージュ」「連続と点滅」「脱中心化」と取り上げてきたが、肝心の「記憶」をまだ取り扱っていない。
そもそもベルクソンは「記憶」の探究を通して「精神と物質」を統合するアイデア(心身二元論を乗り越える)に至った。
イマージュ(精神と物質の中間的なもの)というアイデアはその要請から来たものだ。
ベルクソンは最初、「持続」の探究と発見で学者としてデビューした。
そもそもベルクソン登場まで、ほとんど「持続」の問題に気がついていなかった事の方が驚きだ。
(17世紀に連続合成の迷宮としてライプニッツによる探究、古くはギリシャ時代からパラドックスとして取り上げられてはいたがそれ以上発展してこなかった)
「持続」とは「途切れずにずっと続いている」ことだ。連続のことだ。
単純なことの様に聞こえるが、これがとんでもなく深い問題だったということはご存じの通り(であって欲しいけど・・・)。
そもそも「科学的思考」の本質は「分割」。分割して要素に分けることで本質を見出し、再び合成することでテクノロジーを得る。これが科学技術だ。
だから「持続」や「連続」の研究というのは、世俗的科学とはそもそも方向性が真逆。
最初から「人生ハードモード」を選択する様なもの。それも最難関の道を。
ベルクソンはそんな男だった・・・というわけだ(ヌーソロジーもね)。
さてそれで、彼は「持続」の探究を通して「記憶」の問題へと辿り着く。
その「記憶」の探究からやがて「生命」の本質へと向かう・・・これが大まかなベルクソン哲学の流れである。
それで今回メインとして取り上げたいのは「純粋記憶」である。
ベルクソンによるとそれは「ひとつひとつ時間の中に正確に位置づけられた記憶の連なり」であり、変わることなく今でもずっとそのまま存在している・・・となる。
ある研究者はこれを「過去の実在論」という。過去は決して過ぎ去りなどせず、そのまま残っているという考え方だ。
ベルクソンの意図をよく読めば読むほど、それはほとんど「アカシックレコード」のことであるということが分かる。
アカシックレコード・・・すべての過去の出来事、現在の状況、未来の可能性に関する情報が含まれているとされる、宇宙図書館の様なもの。仏教では阿頼耶識(あらやしき)に相当する。
スピリチュアルに関わっている人ならばみな知っているであろうアカシックレコード。アガスティアの葉とか、前世とか予言とかに関連したものとして捉えている人が多いだろう。
しかしここに、ベルクソンとトーシンが乗り込んできたからには、そんな浮ついた話ではな済ませないよ。
なぜなら「純粋記憶」は、いま・ここで生きる現場に直接関わるものなのだから。
「純粋記憶」を真に理解すれば、あなたはもう元の生き方には戻れなくなるだろう。
それほどの変容がおとずれるに違いない。
いやむしろ「意識進化」して「自己変容」を望むならば、この「純粋記憶」を知らずしてはあり得ないと言いたい。
すべての過去が正確に生きたまま残っているのである。ひとつ間違えばこれはヘビーなことだ。救い様のない話である。
だが安心して欲しい(穿いてますよ・・・じゃなくて)、それは「記憶」の捉え方が真逆になっているだけのこと。
そんなベルクソンの「純粋記憶」を射程に入れて、その他、現在の脳科学の情報などを取り入れながらあれこれ考えてみたいと思う。
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