今月のテーマ:中動態の世界を探究する
~「能動-受動」の枠組みからの脱出~
レクチャーで初めて「中動態」を取り上げたのは2019年12月。
この時はまだ紹介程度で、いつかまたきちんと取り上げなければならないと思っていました。
それから2年が経ち、2022年1月、今年のテーマ「ψ10感性の顕在化」においてその鍵となるのは間違いなく「中動態」であるという直感が来ました。
ここに来てようやく取り上げることができます、「中動態」。
今回は國分功一郎氏の「中動態の世界」を読み込み、この本を軸としてヌーソロジーの観点から領域展開したいと思います。
・かつて印欧後には「中動態」と呼ばれる態が存在した。
・この態が能動態と対立していたが、いまはもう失われてしまった。
・代わりにいまは「受動態が能動態に対立」している。
・つまり「能動-受動」の対立は「本来的なものではない!」
・能動は「意志」を前提とし、意志には責任をともなう。
・果たして私たちに「意志」はあるのか?「責任」はあるのか?
・薬物患者や犯罪者など、その極限の状態において「意志と責任」の問題が浮上する
・不幸に陥る多くの人が、決して自らの意志でそうなった訳ではない。
・むしろ意志ではその逆を望んでいるのがほとんどのケースだ。
・ところで中動態が生きていた古代ギリシャに「意志」という概念はなかった。
・意志と行為は本当に存在するのか?
・むしろ意志なき「出来事」こそが本質ではないのか
失われた「中動態の世界」を見出すことは、変換人型ゲシュタルトの顕在化と同じ方向性を持っているように思います。
ところで「言語が思考を規定する」というと物議を醸します。
この考え方の度が過ぎれば「コンピュータプログラムで意識を作り出せる」となるからです。ヌーソロジーはこの方向性には与しません。
しかしながら國分氏は「言語は思考の可能性を規定する」といいます。
であるならば、言語のもつ枠組みを変えれば、全く「別の思考」が生まれる可能性もあるということです。
「中動態」を思考するということは「能動と受動の中間」を見つけるということではありません。
「能動-受動」という現在の枠組みではない、かつてあったのに失われた「能動-中動」という別の枠組みを発掘することなのです。
ところで戦争をはじめ、人間世界の醜い混乱のすべてに「能動-受動」の対立があるように思われます。
「中動態」を思考することはこの枠組み自体から抜け出し、この世に全く別の風景を出現させる可能性があると言えるでしょう。
統心流ヌーソロジー実践的解説。是非ともお楽しみに。
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