~ 「場の論理」…そして、「切断即連続」~
世界的に有名な仏教学者・鈴木大拙。英語で仏教思想および禅の本を数多く出版し、日本の禅文化を海外に紹介した。同じく世界的に知られた日本を代表する哲学者・西田幾多郎とは同郷・同年生まれの同級生であり、「禅」的思想を巡って晩年まで深い交流があった。
大拙も西田も同じ事を画策し希求していた…それは西洋の対象論理とは異なる東洋的・仏教的にして「霊性」に通じる論理…それを作り上げて学術界に共通理解の土台を築くこと…それが大拙の「即非の論理」であり、西田の「絶対矛盾的自己同一」だった。二人は手紙の中でこれを確認し合っている。
「即非の論理」とは「般若即非の論理」とも言われ、大乗仏教経典『般若経』の中に頻出する論理であると言う。大拙はこれを定式化し「AはAだと云うのは、AはAではない、故にAはAである。」…とした。「Aというのは、Aではない、そのことによって正にAである」…というのだ。
大拙曰く「総ての観念が、まづ否定せられて、それからまた肯定に還るのである」…これを研究者は「A=A≠A」などと表す。般若心経にある「色即是空、空即是色」もまた、即非の論理として理解されるものであろう。これを「霊性的直覚の論理」であると大拙は云う。
だが大拙や西田の試みは道半ばにして頓挫した。西洋対象論理が席捲したその後の世界において、彼らの東洋論理は「論理」としての充分な説得力を持ち得ていないからだ。方向性は示したが「力」を生じさせることができない…オコツト~ヌーソロジーならそう指摘するだろう。
ここにヌーソロジーの役割が自ずと浮上する。大拙や西田の示したかった「霊性論理」を学術的に表現し、西洋論理に対抗できる形で示すこと。ヌーソロジーの作業は間違いなくこれであり、彼らからは大きく前進し、発展させて来たことは疑いようがない。
ゴールは目前だ…しかし、ここには落とし穴もある。ボトルネック…多くの人がここで引っかかる…それは「分かった気になる」という「ある種の理解」であり、その理解をしてしまうことが逆に「霊性」への接続を妨げてしまうという様な理解…。それが存在する。
「即非の論理」において、そのような理解が氾濫しているということを統心は分かり易く列挙していく。ここが統心の真骨頂にして今回の醍醐味である。中でも天才として知られる苫米地英人博士の「数理哲学で定義される宇宙」論に統心が噛みつく。これこそ最も似て非なる宇宙的理解であると。
大拙が生きていたならば統心に賛同せざるを得ないだろう。それは大拙自身が「「即」への不理解がある」として、他の識者達を批判していることから分かる。統心はまさにこの「即」の理解を強調しているのである。
つまり「即時」と「同時」の差異である。即時が等化であり、同時は中和であるとも言えよう。この差異が明確になることで霊性的直覚が生まれる。この理解がそのまま日本的霊性なのである。
この理解への道が明確になることで「即非の論理」は完成する。大拙の夢・西田の夢…そしてヌーソロジーが目指すゴール…そこに到る扉が開くのである。
顕在化の道を歩まんとする変換人は必見の内容。是非ともご覧ください。
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